2008年12月31日

第65話 出世と罠

今日も恩賞の使いは来なかったな。

一体いつになったら俺達義軍に

嬉しい沙汰があるのだろう。

もう一週間になるぞ。

その間に皇甫嵩は左車騎将軍、

朱儁は右車騎将軍に昇進したらしい。

弱虎の孫堅に至っては別部司馬という

たいそう立派な官を得りやがった。

しかも黄巾賊の残党の辺章と韓遂とやらが

ぶつぶつ董卓おひざ元の涼州で反乱を起こしたため、

ぶつぶつの援軍として皇甫嵩と共に行っちまった。

俺達は無駄に時を過ごしている。

かといって宮中に押し入ることなんぞ出来ない。

一体どうすればよいのだ?

恩賞があるないに関わらず教えてくれよ。

無いなら無いでこっちもやりようがあるからさぁ。

城の中から何人かお偉いさんが出て来るので、

あのぉ、

と声を掛けても蔑んだ目で見下され無視ときたもんだ。

いよいよどうにもならなくなってきた。

とそこへいかにもいかにも清廉潔白そうな

じいさんが歩み寄ってきた。

このじいさんは後漢の郎中、張鈞と名乗る。

城の周りで怪しげにたむろしている俺達を

不審に思って声を掛けてきたのだと。

事の顛末を説明すると張鈞は怒り心頭で、

なんとかしてやると約束してくれた。

まぁちょっと色付けて過大報告したけどな。

それが功を奏してどうやら恩賞に預かれるかもしれん。

もう数日待てと言われた俺達は、

心躍らせながらヒゲ豚と共に前祝いを上げる。

やっと現実味が帯びてきたわい。

二日後、約束どおり張鈞が俺達の元へやってくる。

なんと俺は中山府安喜県の県尉になる事が決まったらしい。

県尉と聞いてもピンと来なかったが、

どうやら県の治安を守る仕事らしい。

どうせなら太守にさせてもらいたかったが、

せっかくの出世だ。

大人しく頂いておこう。

だが何故俺達が恩賞を貰えなかったのかを

聞いた俺は愕然とした。

すべて孫堅が仕組んだことだったらしい。

な、なんだと。

俺が弱虎になんかしたか?

心当たりがない。

もう少し詳しく張鈞に聞いてみることにした。

なんにせよ俺には敵が多いのう。


そんなに僻むな弱虎孫堅!




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posted by うさんく斎 at 01:44 | Comment(1) | TrackBack(0) | 第三章 反董卓連合編 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

張譲(ちょうじょう)

本作での呼び名=

潁川の人。後漢王朝末期の宦官。十常侍の一人で官位は中常侍。 霊帝 (漢)と何太后の信任を得て宮廷の権力を掌握。 黄巾の乱を治めたとして、侯に封じられている。 霊帝の死後、外戚であった大将軍何進をと対立を深め、宦官排斥を企てた何進を、先手を打って他の十常侍とともに宮中で暗殺した。その後何進の家臣であった袁紹、袁術らによる宦官掃討の際、少帝と陳留王(のちの献帝)を伴って洛陽を脱出するが、途中で掃討軍に追いつかれ、入水自殺した。


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
タグ:十常侍 張譲
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少帝(しょうてい)

本作での呼び名=

中国後漢朝の第13代皇帝。霊帝と何太后との間に生まれた。
霊帝の崩御に伴い母何太后とその兄である大将軍・何進により擁立された。しかし何進が宦官によって暗殺され、その時期に洛陽に入ってきた董卓によって異母弟の劉協(献帝)を擁立されたために廃位となり、弘農王に封じられた。
その後、董卓による専制に反発した諸侯による董卓討伐戦が起こったとき、反乱軍に擁立されることを恐れた董卓に命じられた李儒によって、長安遷都前に毒殺された。懐王と諡され、実質皇帝とは認められなかった。
劉弁の在位はわずか5ヶ月に過ぎないが、地方豪族のひとりにすぎない董卓に廃立されたことは、事実上、後漢の滅亡を意味していた。
三国志演義では、劉弁は劉協よりも若干年上の少年であったが、劉協のほうが聡明さがあり逆に劉弁は暗愚であったために何太后と共に李儒により高所より突き落とされ殺害された。
ちなみに、劉弁の即位当時の年齢17歳というのは、後漢歴代皇帝の即位時年齢の中で4番目の高齢にあたる。劉弁より上位の3人は初代光武帝、2代明帝、3代章帝である。こうした事実は、後漢朝の歴代皇帝がいかに幼く権力のない皇帝ばかりだったかを証明するような話である。


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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2008年12月30日

第三章 反董卓連合編

黄巾賊討伐編を最初からまとめて読む

第三章 反董卓連合編開幕


2008年12月30日 第64話 ヒゲが払え

2008年12月31日 第65話 出世と罠

posted by うさんく斎 at 22:20 | Comment(0) | TrackBack(0) | 三国志 裏劉備伝 目次 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

韓遂 文約(かんすい)

本作での呼び名=


「韓約」とも呼ばれることもある。霊帝の時代、涼州で羌族に押し立てられ、辺章・北宮玉・李文侯らと手を結んで後漢に対して反乱を起こした。これは董卓によって鎮圧されたが、その後も羌族の支持を受け、涼州に割拠した。辺章・北宮玉を殺すと、王国を馬騰と共に擁立し、馬騰と義兄弟の契りを結んだ。『三国志演義』では、馬騰配下の一人のように描かれているが、実際は涼州に勢力を持つ群雄の一人である。ただ、韓遂は常に他人を表に立て、自らは裏で実権を握るようにしたという。初めは辺章、次に王国を表に立て、さらに王国を廃すると(おそらく殺害して)、馬騰を立てた。
192年に降伏するが、同年の夏4月に董卓が呂布と王允らに殺され、さらに李傕がその王允を殺し、呂布を追い出して自分の政権を成立させると、劉焉と共同でこれを攻めたが戦線が膠着し撤退。涼州を巡って馬騰とも対立し、一転して互いに一族を殺し合う有様となった。官渡の戦いを控えた曹操・鍾繇の仲介により講和し、その後も袁紹戦で曹操に協力した。馬騰が曹操の強い要請で朝廷に出仕し、鄴に移住すると、その子の馬超を表に立てた。

曹操が漢中の張魯征討に出兵すると、韓遂らは張魯攻撃にかこつけ通り道に当たる自分たちを攻撃するのではないかと危惧し、馬超・楊秋ら西涼の武将とこれに呼応して曹操に対して反逆した。しかし曹操の離間策にはまって馬超と対立し、馬超と袂を分かった上で涼州に引き揚げた。この時、韓遂の息子と孫は曹操に皆殺しにされている。

後に曹操の武将・夏侯淵が涼州平定のために攻めて来ると、これと懸命に戦ったが敗れ、金城に逃走した。韓遂は蜀に逃げようかと配下の成公英に漏らしたが、成公英は抗戦を主張し、韓遂もこれに従った。しかしまもなく麹演・蒋石らによって殺された。または、病死したところを首を斬られ、曹操への手みやげにされたともいわれている。70余歳だったと伝えられる。
『三国志演義』では、馬超の忠実な同盟者として「手下八部」(楊秋、侯選、張横、程銀、成宜、李堪、馬玩、梁興)を率いて曹操と戦った。しかし、曹操配下の賈詡(かく)の離間の計にはまり怒った馬超によって左腕を落とされ、その後曹操に降伏し関内侯に封じられ、夏侯淵と共に涼州に留まった。
また、年齢は史書と異なり172年生まれとなっている。これは、韓遂の父が曹操と同年の孝廉に推挙されたという記事から、曹操の息子に近い世代に設定されたものであろう。また、裴松之が『魏書』「武帝紀」の注に引く『魏武故事』には曹操の布告として、同年に推挙を受けた中でも五十歳になっていた者がいたと述べられている。実際の韓遂の年齢から(上記にあるように、曹操よりも年上である)、その人物が韓遂の父親であった可能性も考えられる。


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
タグ:韓遂
posted by うさんく斎 at 22:05 | Comment(1) | TrackBack(0) | 登場人物 「その他」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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