2009年01月01日

袁紹 本初(えんしょう)

本作での呼び名=

霊帝時代の大将軍・何進との縁もあり、若い頃から侍御史になり、中軍校尉、やがて司隷校尉まで登る。霊帝の死後、何進にすみやかに宦官を排除するよう進言したが、受け入れなかった何進は逆に宦官によって殺されてしまう。袁紹はこれを機に兵を動かし、宮中の宦官らを殺害、死者は誤って殺された者も含め、2000人に及んだ。
董卓は少帝を廃して陳留王(献帝)を立てようとした時、太傅の袁隗を叔父に持つ袁紹に相談を持ちかけた。袁紹は表向き賛成したが、そのまま冀州に逃亡した。董卓はこれに激怒したが、その後、名門である袁氏の勢力を恐れて、袁紹を勃海郡の太守に任命している。190年、董卓征討の兵を起こし、連合軍が結成されたときは、名門であるため盟主に推挙された。この時、盟主に袁紹を推挙したのは、曹操だったといわれている。
河北統一と曹操との決戦
董卓征討軍が解散したのち、袁紹は華北への勢力拡張を始めた。191年に韓馥より冀州牧の地位を譲り受け牧となり、197年に大将軍に任じられた。199年には、かねてより北方の覇権を争っていた公孫瓉が篭る易京を陥落させ幽州を手中に収め、更には青州や并州にも勢力を拡大し、肥沃な河北四州を治めることに成功。同時代屈指の一大勢力を築きあげた。しかし、皇族であり人望のあった劉虞の擁立計画は頓挫し、さらに献帝を曹操に先に擁立されるなどの失敗もあった。
その後、河南一帯を統一した曹操と対立を深める。中原の二大勢力となった両者の対決は必至であった。200年には、持久戦を主張する沮授や田豊の言を退け官渡の戦いと呼ばれる一大決戦に臨んだ(田豊は元々、曹操が河南攻略のために転戦していた留守を狙い、電撃戦で洛陽を奪取すべしという策を進言していたが、袁紹は息子の病気を理由にこれを退けていた。その間に曹操は河南を統一してしまったため、やむを得ず田豊は持久戦主張に策を切り替えたがこちらも袁紹は受け入れず田豊を投獄し、結果的に時勢を読み切れずに機を逃がす)。
緒戦こそ白馬・延津で顔良・文醜らが討ち取られるなど出鼻を挫かれたものの、兵力・物資で勝る河北軍はじりじりと陣営を圧迫し、一時は撤退を考えさせるほどの状況に曹操を追い込む。しかし、陣中の不和から最古参の重鎮許攸が曹操軍に寝返り兵糧庫の所在を暴露。それを焼き打ちされたことが大きな打撃となり、また高覧・張郃らの降伏などもあって結果的には冀州に敗走した。
この官渡の戦いで曹操と袁紹の勢力差が逆転したといわれることが多いが、敗戦後に冀州の各地で袁紹に対する反乱が勃発したとき、袁紹はこれらを全て平定している。また、曹操も袁紹存命中は侵攻しなかったため、敗戦後もその国力・勢力は曹操を上回っていたと思われる。
しかし、曹操との戦いで敗れた苦痛から病に倒れ、建安7年(202年)5月に死去した。


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
タグ:袁紹
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蹇碩(けんせき)

本作での呼び名=

後漢末の宦官。
霊帝に寵愛され、西園八校尉がおかれたとき、宦官ながら身体壮健ということで上軍校尉に任ぜられて筆頭として近衛軍を統括した。霊帝は劉弁の軽はずみな性格を忌んで、王美人との間に生まれた劉協を立てようと考え、黄門の蹇碩はその補佐を遺嘱されていた。そして霊帝の死後、蹇碩はそれに応えて劉協を立てようと、邪魔になる何進の誅殺を謀ったが、逆に何進の手にかかって殺された。また、かつて曹操が洛陽の北部尉をしていた頃、蹇碩の叔父が禁令を犯して夜間外出をして、曹操に捕らえられて棒で殴り殺されたことがあった。


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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