2009年01月02日

王允 子師(おういん)

本作での呼び名=

王允は太原郡祁県(現山西省太谷県)の人で、若い頃に「王允は一日に千里を走り、王佐の才(王を佐(たす)ける才。主君に仕えてその人を偉大足らしめる才能)である。」と評されていた。

19歳にして郡の役人となる。当地では趙津と言う者が悪行を繰り返しており、問題となっていた。王允はこれを捕らえて処刑した。趙津の兄弟が怒って中央の宦官に賄賂を持って王允への復讐を行おうとした。宦官は時の皇帝・桓帝に事実を捻じ曲げて報告し、桓帝は王允の上司の太守(郡の長官)を投獄して処刑した。王允は太守の棺を持って太守の故郷の平原(山東省平原)まで持ち帰り、自分の親が死んだ場合と同じだけの3年間を喪に服し、喪が明けると復職した。

新しい太守の王球が大して能力も名声も無いものを登用したのでこれを諫めた所、王球は不快に思い王允を投獄して殺そうとした。この事を聞いた刺史(州の長官)のケ盛は王允を救い出して自分の部下にした。この事で王允の名声が高くなった。

184年の黄巾の乱に際しては豫州(現在の河南省北部)刺史となり、荀爽・孔融らを幕僚に黄巾軍を撃破した。乱終結後に十常侍の張譲が黄巾軍と繋がっていたことを告訴したが、時の霊帝は張譲が謝ったことで許してしまい、逆恨みで王允が投獄された。死刑に処されるところであったが、多数の助命嘆願により、命を救われた。

董卓政権

霊帝が死去すると大将軍の何進は妹の子の弁皇子(廃帝弁)を帝位につけた。王允は何進に招かれて河南尹(首都洛陽を含む郡の長官)になり、弁が即位すると尚書令(皇帝秘書長)となった。

その後、何進は宦官たちに殺され、それに代わって董卓が政権を握った。王允は董卓に選任され、190年に司徒とされ政務を行なった。

しかし、董卓はその後の暴政により人望を失い、少帝を殺害したり、洛陽を破壊して長安への遷都を強行したことでそれが決定的になった。さらに董卓は、司空張温を袁術と内通していると誣告させ鞭によって打ち殺す、縁談を断った未亡人を棒で殺害する、百官の前で投降した兵の舌をえぐり抜き、さらに手足を切断して飲食するなど、さまざまな狂態が相次いだ。このような相次ぐ異常事態に憂慮した王允は友人の黄琬・部下の士孫瑞と話し合い、董卓の暗殺計画を練り始め実施の準備を始めた。演義では、「七星宝刀」を董卓暗殺のため、壮年の曹操に渡し、董卓を暗殺する設定となっている。

結果的に、暗殺を引き受けたのは王允と同じ并州出身で、董卓の寵臣の呂布であった。呂布は董卓に信頼されてその養子となり、身辺警護を勤めていた。だが、ある時に董卓の機嫌を損ねて手槍を投げつけられたことがあった。また董卓の侍女と密通しており、このことがばれないかと恐れていた。そのような折に呂布の相談を聞いた王允は自身の暗殺計画を打ち明け、呂布を説き伏せて仲間に入れ、呂布は董卓が宮殿に来た際に彼を殺害した。

三日天下

王允は殊勲者の呂布を奮威将軍に任じ、温侯に封じた。そして董卓の残党狩りを行い、董卓の一族を皆殺しにし、董卓派と見られた官僚らを粛清した。その中には文人として名高い蔡邕もいた。

しかし、呂布をはじめ多くの者が董卓の涼州兵達を特赦するよう提案するが、王允は「年に二回特赦を出すことは慣行に背く」と拒否し追放を決定。さらに呂布らは董卓の財産を協力した兵たちに賞与として分けるよう提案するが、これも拒否。また董卓に厚遇されていた為、董卓に恩を感じていた後漢を代表する学者である蔡ヨウが董卓の死を嘆き悲しんでいる事に対して投獄し、獄中で歴史書の編纂を行おうとした事(恐らく董卓を弁護する内容が含まれていた可能性もある)に対して死罪をもって対応した。このような杓子定規的な対応が後に自らの首を絞めることになる。また王允はかねてから呂布を軽視し、呂布も自分の功績を誇ることが多かった為、両者の仲は次第に悪化していった。

董卓の部下であった李傕・郭ら涼州出身者は降伏を願い出たが、前述のように王允は許さなかった。李傕・郭らが賈詡の助言により都に攻め入ると、王允に反発した胡軫・楊定の裏切りもあり、呂布らは敗北する。

敗れた呂布は撤退時に

「さあ、共に参りましょう」

と王允に同行を誘うが、王允は

「国家の安定が、私の願いでした。これが達成されないとあれば、命を捨てるまでのことです。朝廷では幼い陛下が私だけを頼りにしているのです。この期に及んで一人助かるなどは、とても私にはできません。どうか関東の諸侯によろしくお願いします。天下のことを忘れないようにと、お伝えください」

と処刑を覚悟で、長安に残った。

呂布を破った李傕らは長安へ侵入し、董卓暗殺に加担した有力者らを次々と殺害、献帝の避難所に迫った。献帝は李傕らを責めるが、李傕らは「陛下に忠を尽くした董卓暗殺の復讐をしたまでのこと、終わり次第、罪を受けます。」と弁明し、行き場を失った王允は逮捕され処刑、家族全員が晒し首となった。齢57。

長安の人々は、老若男女、全員が涙を流した。

彼の墓は河南省許昌郊外にある。

連環の計

『演義』に於いては貂蝉と言う美女を使って董卓と呂布を仲違いさせることになっている。この策を「連環の計」と呼ぶ。この話は上述の呂布が董卓の侍女と密通していたと言う話から創られたと考えられる。漢室の忠臣として描かれているが、正史ではそのような評価はなされていない。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
タグ:王允
posted by うさんく斎 at 00:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 登場人物 「その他」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

丁原 建陽(ていげん)

本作での呼び名=

并州の貧家を出身とする説が有力。武芸に秀でるも学問は無かった。南県の役人を経て、并州刺史や騎都尉を務め、この頃に呂布を家臣に取り立てている。

霊帝の死後、何進から洛陽へ招かれて宦官排斥に参加、執金吾となる。その後、何進が宦官に殺害されると董卓が実権を握り、献帝の擁立を図る。丁原はこれに反対したが、董卓に通じた呂布に殺され、彼の配下の兵は呂布に従って董卓軍に吸収された。

『三国志演義』に題材をとった後世の書物では、何故か丁原を『荊州刺史』としているものが多いが、并州出身とされる彼が当時荊州に着任することは考えにくく、現在では誤記と考えられている。『演義』では董卓に反発した気骨の士とされる事が多いが、何進の暗殺直後、混乱に乗じ孟津で略奪を行っていたという記録から、実際は北方軍閥同士の主導権争いの中で淘汰されたと見るのが妥当であろう。


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
タグ:丁原
posted by うさんく斎 at 00:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 登場人物 「その他」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

呂布 奉先(りょふ)

本作での呼び名=

『三国志』によると、はじめ河内に并州刺史として駐屯していた丁原に騎都尉・主簿として仕え、重用された。189年、霊帝死後の混乱の中で丁原とともに首都洛陽に入るが、中央の権力獲得を図る董卓とやがて衝突した。董卓は丁原殺害を目論むと、その下にいる呂布に謀反をもちかけた。誘いをかけられた呂布は丁原を斬り、そのまま董卓に仕えて信愛を得た。董卓は呂布を非常に重用し、養子とした。さらに董卓によって騎都尉に任ぜられ、まもなく中郎将に累進し、さらに都亭侯に封じられた。絶大な権力を握った董卓は傍若無人な振る舞いで多くの人の恨みを買ったが、傍らに呂布が侍していたために誰も表立って意見する者はいなかった。
呂布は腕力が常人よりもはるかに強く、弓術・馬術にも秀でていたため、前漢時代に活躍した李広になぞらえて飛将と呼ばれていた。『三国志』の注に引かれている『曹瞞伝』(これ自体は散逸)によると、彼の乗馬「赤兎」とともに「人中に呂布あり、馬中に赤兎あり」と賞されたという。その一方で知謀には欠け、敵対する者からでも利益で誘われるとすぐに行動をおこしてしまうという、節操がなく物欲の強い性格であったようである。
ある時董卓は一時の怒りから呂布に手戟(小さな剣)を投げつけたが、体術に優れていた呂布は見事にかわして事なきを得た。しかしそれ以来、呂布は董卓に不満を持つようになった。さらに呂布は董卓の侍女(『三国志演義』では司徒王允の養女貂蝉)と密通しており、それが露顕することを恐れていた。この両者の隙に乗じ、暴虐の限りを尽くす董卓の抹殺を目論む王允は呂布に董卓暗殺を唆す。192年、ついに呂布は董卓を殺害し、その恐怖政治を終わらせた。

しかし董卓を殺害後、呂布は董卓の出身地の涼州出身者を恐れ憎んだので、呂布は涼州の人々に恨まれた。それが原因の一つとなり董卓の軍事力の基礎であった郭・李傕ら涼州の軍勢が首都長安(董卓によって洛陽から遷都)を襲撃した。呂布は応戦したものの防ぎきれず、李傕らに長安を奪われた。ちなみに『三国志』の注に引く『英雄記』によると、この攻防戦の際に呂布は郭に一騎打ちを挑み、郭を負傷させたが、郭は味方に助けられた。
呂布は数百騎を率いて武関から逃亡した。
呂布はまず袁術を頼ろうとするが、拒否されている。次に張燕ら黒山賊と戦う河北の袁紹に助太刀した。呂布の軍は強く、精強を誇った黒山賊を撃破した。しかし、その後呂布は袁紹に兵力の補充を要求し、彼の兵も略奪などを行ったので、袁紹の忌むところとなり、呂布もそれを察して彼の下を離れようとした。さらに袁紹は呂布に刺客を送るが失敗、呂布は袁紹の元から逃走した。流浪の途中、呂布は陳留を通過し、曹操の親友であり信頼も厚い陳留太守の張邈に厚くもてなされたが、袁紹はその事を大いに悔しがった。結局、呂布は河内の張楊を頼った。

以前、袁紹は張邈と口論になり、袁紹は曹操に張邈を殺させようとしたが、曹操は袁紹に「張邈は自分の親友であるので、許してやって欲しい。今は仲間割れをする時ではない」と反論したので、張邈は曹操に恩義を感じたといわれる。しかし、やがて張邈は時の権力者の袁紹に色々と恨みを買っていることから、袁紹の命令で曹操に攻撃されることを恐れるようになった。さらに張邈は曹操の部下でありながら彼に不満を持つ陳宮に説得され、呂布を盟主として迎え入れて兗州牧とし、曹操に反旗を翻した。
曹操・呂布の両軍は蝗害に苦しみつつも1年以上にわたって激しく戦い、呂布軍は曹操に重症を負わせたが、ついに呂布軍は曹操軍に敗れ、呂布と陳宮は徐州の劉備を頼って落ち延びた。
まもなく劉備が袁術と合戦を行うようになり、袁術は呂布に劉備の背後を衝くようにもちかけた。呂布は張飛と曹豹の争いに乗じて劉備の本拠下邳を奪い取り、徐州の刺史を自称した。行き場を無くした劉備は結局呂布に従う羽目になり、小沛に駐屯させられた。
この後、袁術は武将紀霊らに兵三万を率いさせて再び劉備を攻め、劉備は呂布に救援を求めた。呂布軍の諸将は「将軍は常に劉備を殺そうとしていたのですから、袁術に手を貸すべきです」と救援に反対したが、呂布は「いや、もし袁術が劉備を撃破すれば、北の泰山の軍閥と連携することになり、わしは袁術らに包囲されてしまうことになる。救援せざるをえない」と主張して、劉備の陣中に介入した。紀霊たちは呂布が現れたと聞くや兵を纏めて攻撃を中止していたが、呂布は両陣営の将を安屯に集めさせて和解させようと図った。
呂布は、「劉備はわしの弟だ。弟が諸君らのせいで困っておるので、助けに来たのだ。わしは合戦を好まず、和解を喜ぶ性格なのだ」と言い、軍候に命令して戟を陣営の門に植えた。「わしが戟の小支を射るのを見よ。一発で当たれば兵を引いて去れ。引かぬというのなら好きにやれ」と言って呂布が放った矢は見事に命中し、驚愕した諸将は皆引き揚げていった。
しかし、その後、呂布は劉備を攻め、小沛を陥落させた。劉備は逃走し、曹操を頼った。
その後、袁術は呂布に婚姻を持ちかけ、呂布もこれを受けようとしたが、沛国の相である陳珪はこの二人が連携することで騒乱がさらに深まることを恐れ、呂布を唆して縁談を破談させ、曹操と連携させた。怒った袁術は呂布に大軍を差し向けるが、陳珪とその息子の陳登の離間の計により袁術軍は混乱し、そこを突いた呂布軍によって大敗した。曹操は呂布に左将軍の官位を与えた。一方で陳珪は陳登を首都許昌(曹操によって遷都)に遣わし、皇帝を擁して急速に勢力を強大化しつつあった曹操に呂布を討つようそそのかした。

建安3年(198年)、呂布は再び袁術側につくと、部下の高順を派遣して小沛の劉備を攻撃した。曹操は夏侯惇を派遣して劉備を救援させたが、高順に敗退し、小沛は陥落し、劉備の妻子は捕虜となった。そこで曹操は自ら大軍を率いて徐州に攻め込んだ。呂布は優れた武勇を見せたものの、計略に疎く猜疑心が強いため部下の諸将を統御できず、連戦連敗となり、下邳城に追い詰められた。包囲3ヶ月、冬季の水攻めに遭った呂布軍の士気は阻喪し、ついに将軍の侯成・宋憲・魏続が反乱を起こし、陳宮を捕縛して曹操に差し出して降伏した。追い詰められた呂布は残った部下とともに白門の城楼に上ったが、包囲が厳しくなるのを見てついに降伏した。呂布は縛り首に処され、陳宮・高順らは斬首された。
『三国志演義』では、籠城中に自分だけ豪勢な食事をし、酒ばかり飲んでいて部下を殴りつけたり怒鳴り散らしていたため人心を失い、自分を戒めるために禁酒令を出したが、部下の侯成が善意から猪料理と酒を薦めたのに対し腹を立て、百叩きの刑とした。それが恨みを買う一因となって酒に酔って寝ていた所を侯成・宋憲・魏続に捕らえられてしまう。陳宮・高順らが斬首された後、捕らえられて曹操に命乞いをするものの、劉備に「丁原や董卓の時のように裏切るかもしれませんぞ」と言われた曹操は処刑を決意する。これに激怒した呂布は「この大耳野郎が。陣門で戟を射て助けてやったことを忘れたのか!!この恩知らずめ」と口を極めて劉備を罵ったが、同じくして処刑のために連行されてきた張遼に「見苦しい」と罵られた。主を殺し、裏切り、自分の武勇のみで乱世を生き抜き最期は部下に裏切られその生涯を終えた。


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
タグ:呂布
posted by うさんく斎 at 00:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 登場人物 「その他」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

袁術 公路(えんじゅつ)

本作での呼び名=

青年期は侠人として知られ、仲間達と放蕩な生活を行っていたが、後に改心、孝廉に挙げられると官は河南尹、虎賁中郎将に至った。
189年、霊帝崩御後、袁紹と共に政権を掌握していた宦官数千名を誅殺した。董卓が入京後に後将軍に任じられたが、害が及ぶのを怖れて荊州の南陽へ逃れた。長沙太守の孫堅により南陽太守が殺害されると、袁術はその後任として就任、南陽郡を支配し孫堅を豫州刺史に任じ董卓を攻撃させた。南陽郡は人口が多く豊かであったが、袁術が奢侈な生活を追及し、過酷な徴税を行ったために民衆は苦しんだと伝えられる。
袁術は袁紹と対立しており、それぞれ群雄と盟約を結び対抗した。袁紹と同盟したのが曹操・劉表・韓馥など、袁術と同盟したのが孫堅・公孫瓚・陶謙などである。袁紹は董卓により擁立された献帝に対抗すべく、劉虞の擁立を計画したが、袁術はこれに強く反対している。
192年(初平3年)、孫堅に命じて劉表の攻略を計画するが失敗、孫堅は敗死している。翌年、兗州の曹操への攻撃を行うが曹操と袁紹の連合軍に大敗、揚州へと逃走し寿春を拠点とした。李傕は長安に入ると、袁術と同盟を結ぶため、袁術を左将軍・陽翟侯に任命し節を与えた。
その後、孫堅の遺児である孫策に揚州を攻略させ、揚州刺史劉繇を討たせるなど勢力を拡大するが、獲得した領土は袁術配下の武将に分配された。この行為は孫策の反感を買い、後の離反の要因となっている。
ちなみに、その時に幼少であった陸績が袁術の元におり、袁術が陸績に間食として蜜柑を与え陸績がそれを母親に食べさせたいからと言う理由で隠し持って帰ろうとしたことが判り「とても親孝行な子供だ」と自ら褒め称えたという逸話が二十四孝として残っている。
197年(建安2年)に袁術は寿春を都として皇帝に即位した。「国号を成と称号し、元号を仲家と定めたが、諸群雄の同意を得られず、また袁術本人の奢侈により人心を失った。」などという俗説があるが、実際には国号を仲としたと考えられている。俗説は『後漢書集解』にある「仲氏(仲家)とは劉氏の漢家や公孫述の成家のように」国号であるの一文を誤解したことに起因すると考えられている。
即位時に漢朝では献帝が存在していたため、諸侯からは皇帝として承認されず、また袁術自身も私欲による奢侈放蕩な生活を求め重税を実施したことにより兵士・領民は大いに飢え困窮し、民衆の反発を惹起した。この暴政に袁術の家臣からも袁術から離反する者が相次いだ。孫策も皇帝即位を諫める書簡を送っているが、諫言が容れられずやはり離反している。
同年、袁術は呂布に婚姻を持ちかけるが、呂布は陳珪の意見に従い婚姻を断った。そして呂布は袁術の使者の韓胤を曹操に引き渡し、曹操は韓胤を処刑した。激怒した袁術は楊奉・韓暹と共同戦線を結び、張勲らを派遣して呂布を攻めたが、陳登・陳珪の計略により楊奉・韓暹が裏切り大敗した。
同年、袁術は陳国(淮陽)に攻め込み、陳王の劉寵と陳国の相の駱俊を誘殺した。だが、曹操が自ら迎撃に来ると、袁術は逃走し、橋蕤らが曹操軍を迎撃したが大敗し、橋蕤は討ち取られた。この敗戦で袁術の勢力は大いに衰えた。
198年、袁術は呂布と同盟を結んだが、呂布は曹操に滅ぼされた。
敗戦と悪政のため勢力が衰え自立困難となった袁術は部下の雷薄・陳蘭のもとに逃げたが受け入れられず、199年(建安4年)6月、袁紹の元へ逃亡途中に病死した。『呉書』の記載によれば最後に蜂蜜入りの飲物を所望したが、蜂蜜が無く、「袁術ともあろうものがこんなざまになったか」と怒鳴り、一斗(当時は約1.98リットル)余り吐血して死んだと伝えられる。
袁術の妻子は、元の部下の廬江太守劉勲に身を寄せ、孫策が劉勲を破った際に孫策に保護された。袁術の娘はその後孫権の側室となり、息子の袁燿も呉に仕官している。しかし娘(袁夫人)には男子は生まれなかった(女子については不明)。また他の夫人の産んだ子を何人か彼女に養育させたが、いずれも夭逝している。実質的な正室である歩夫人が死去すると、皇后に立てようとする動きがあったが、袁夫人は辞退した。のち、潘夫人(孫亮の母)の讒言により、孫権に殺害された。
『三国志演義』では「伝国の玉璽」を得た事が皇帝僭称の直接的な動機になったとしている。また、第二十一回での袁術の死の描写では、雷薄・陳蘭らに略奪を受けついに糧食尽き、最後は蜜水を持ってくるよう料理人に命じたところ「ただ血水があるだけです。蜜水などどこで得られましょう。」と言われ、絶望して血を吐いて死んだとなっている。ちなみに横山光輝の漫画『三国志』ではさらに脚色が加えられ、ただ一人生き残った甥の袁胤と共に飢えの中歩き続け、とある農家で水を求めると、農民は水が入った瓶を倒して「さっきまで水はあったがね。今なくなっちまった。血ならまだ少しは体に残っているがね。」と答えるという印象的な場面となっている。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
タグ:袁術
posted by うさんく斎 at 00:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 登場人物 「その他」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。