後漢末期の武将。字は伯珪。大司馬劉虞を滅ぼし、群雄として割拠する。先祖代々二千石(郡太守クラス)であった有力豪族の子として生まれたが、生母の身分が低かったので、公孫家の一員とは認められず、あまり厚遇されなかった。若い頃に、遼西郡の門下書佐を勤めていた時に、聡明で、声が大きく、容姿が優れていたので、太守の侯氏から惚れ込まれ、侯氏の娘婿となる。そして侯氏の援助で廬植の下で劉備と共に勉学を学んだ。孝廉に推挙されて遼東属国長史となった河北の支配権をめぐって袁紹と争うが、敗れて自害した。従弟に公孫範・公孫越、子に公孫続らがいる。
公孫「讃」は当て字となっております。。。
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