江夏郡竟陵県の人。前漢の魯恭王・劉余(景帝の第4子)の末裔に当たる。なお、劉焉の先祖は章帝の時代の元和年間に中原から江夏郡に移住したといわれる(『蜀書』「劉二牧伝」)
後漢の宗室の一人という名門の血筋に加え、政治手腕に優れていたことで中郎となる。しかし、彼の学問の師であった祝恬の訃報を聞き、官職を辞し喪に服した。やがて陽城山で学問所を開いた。
後に彼は賢良方正に推挙されて司徒府に招かれた。やがて洛陽の県令、南陽郡太守、冀州刺史、宗正、太常(皇帝の祭祀を司る九卿の筆頭に当たる役職)などを歴任した。
『演義』では、黄巾の乱の時に幽州太守を務め、その時に劉備らと出会ったことにされているが、正史では劉焉が幽州太守(刺史・州牧)に任命された事項は無い。しかし、これが後に息子の劉璋が劉備を益州に迎え入れて彼を遠縁の親族として兄事する伏線となっている。
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