2008年12月30日

韓遂 文約(かんすい)

本作での呼び名=


「韓約」とも呼ばれることもある。霊帝の時代、涼州で羌族に押し立てられ、辺章・北宮玉・李文侯らと手を結んで後漢に対して反乱を起こした。これは董卓によって鎮圧されたが、その後も羌族の支持を受け、涼州に割拠した。辺章・北宮玉を殺すと、王国を馬騰と共に擁立し、馬騰と義兄弟の契りを結んだ。『三国志演義』では、馬騰配下の一人のように描かれているが、実際は涼州に勢力を持つ群雄の一人である。ただ、韓遂は常に他人を表に立て、自らは裏で実権を握るようにしたという。初めは辺章、次に王国を表に立て、さらに王国を廃すると(おそらく殺害して)、馬騰を立てた。
192年に降伏するが、同年の夏4月に董卓が呂布と王允らに殺され、さらに李傕がその王允を殺し、呂布を追い出して自分の政権を成立させると、劉焉と共同でこれを攻めたが戦線が膠着し撤退。涼州を巡って馬騰とも対立し、一転して互いに一族を殺し合う有様となった。官渡の戦いを控えた曹操・鍾繇の仲介により講和し、その後も袁紹戦で曹操に協力した。馬騰が曹操の強い要請で朝廷に出仕し、鄴に移住すると、その子の馬超を表に立てた。

曹操が漢中の張魯征討に出兵すると、韓遂らは張魯攻撃にかこつけ通り道に当たる自分たちを攻撃するのではないかと危惧し、馬超・楊秋ら西涼の武将とこれに呼応して曹操に対して反逆した。しかし曹操の離間策にはまって馬超と対立し、馬超と袂を分かった上で涼州に引き揚げた。この時、韓遂の息子と孫は曹操に皆殺しにされている。

後に曹操の武将・夏侯淵が涼州平定のために攻めて来ると、これと懸命に戦ったが敗れ、金城に逃走した。韓遂は蜀に逃げようかと配下の成公英に漏らしたが、成公英は抗戦を主張し、韓遂もこれに従った。しかしまもなく麹演・蒋石らによって殺された。または、病死したところを首を斬られ、曹操への手みやげにされたともいわれている。70余歳だったと伝えられる。
『三国志演義』では、馬超の忠実な同盟者として「手下八部」(楊秋、侯選、張横、程銀、成宜、李堪、馬玩、梁興)を率いて曹操と戦った。しかし、曹操配下の賈詡(かく)の離間の計にはまり怒った馬超によって左腕を落とされ、その後曹操に降伏し関内侯に封じられ、夏侯淵と共に涼州に留まった。
また、年齢は史書と異なり172年生まれとなっている。これは、韓遂の父が曹操と同年の孝廉に推挙されたという記事から、曹操の息子に近い世代に設定されたものであろう。また、裴松之が『魏書』「武帝紀」の注に引く『魏武故事』には曹操の布告として、同年に推挙を受けた中でも五十歳になっていた者がいたと述べられている。実際の韓遂の年齢から(上記にあるように、曹操よりも年上である)、その人物が韓遂の父親であった可能性も考えられる。


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
タグ:韓遂
posted by うさんく斎 at 22:05 | Comment(1) | TrackBack(0) | 登場人物 「その他」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
聽聽????????備??腑搴磅k????????????併?_般儷_硅?浜恒??у箙???c????????c?鍛?????_?????????併??ャ????棣??????"????т?????芽?大丸2??c?????? [url=http://www.bag-weighs.com/]ドルチエ ガッバーナ 財布[/url] <a href="http://www.bag-weighs.com/" title="ドルチエ ガッバーナ 財布">ドルチエ ガッバーナ 財布</a>
Posted by ドルチエ ガッバーナ 財布 at 2013年08月06日 18:22
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。

この記事へのトラックバック
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。