後漢の丞相・魏王で、三国時代の魏の基礎を作った。廟号は太祖、謚号は武皇帝。後世では魏武帝、魏武とも呼ばれる。
父は曹嵩。曹嵩はもともと夏侯氏であったが、中常侍・大長秋曹騰の養子となり曹氏を継ぎ(高位の宦官は養子をとって家名を存続することが可能だった)、太尉となっている。曹氏の先祖は前漢の平陽侯曹参とされるが疑わしい。また、曹嵩の実家である夏侯氏の先祖は前漢の汝陰侯夏侯嬰とされている。彼の挙兵時から従軍した夏侯惇、夏侯淵等は従兄弟にあたる。
『三国志演義』の影響によって悪役としての評価がほとんど定着してしまった曹操であるが、1950年代以降に入ってからは逆転し、急速に再評価が進んでいる。
近代の中国においては、西欧の進出に対してその劣位が明白になり、幾度となく近代化を目指しては失敗した背景に、思想的な儒教・華夷思想への偏重などがあったと反省され、思想的な枠組みを超えて合理性を追求した曹操の施策が、多くの知識人によって再評価された。魯迅も曹操を積極的に評価する旨の記述を残している。 特に曹操再評価を盛り上げたのは毛沢東で、彼の主導の下、曹操再評価運動が大々的に行われた。郭沫若が戯曲において曹操を肯定的に評価したのもこの頃である。また、文化大革命の時の批林批孔運動でも、曹操は反儒教の人物として肯定された。
現代中国では思想の変遷が、儒教・道教の系譜(孔子、孟子などが中心)と、法家・兵家(韓非子、孫子等)の系譜との対立軸を通じてとらえられることが多い。マルクス・レーニン主義を未だ正当としていることもあり、これらの2思想は中国においては「革命」の段階的進行であった、と説明されている。そして、おおむね身分制度を重視し、男女差別を人倫の基とした儒教の系譜に対しては批判的な評価がなされ、合理性を追求した法家の思想には甘い評価が為される傾向がある。そのため、曹操も単なる「悪役」から多少味のある「悪役」程度には評価を変えてきているようである[7]。もっとも、圧倒的大多数は劉備を心情的に支持していることは変わりがない。
日本では吉川英治が『三国志』において曹操を悪役ではなく作品前半の主人公の一人として描き、新たな曹操像を掲示した。1962年に、京都大学の吉川幸次郎が『三国志実録』において曹操の再評価を行い、特に文学の面での功績を高く評価した。また、それまで日本語訳の無かった正史三国志に着目し、曹操の事跡を正史によって詳しく紹介した。
陳舜臣作「秘本三国志」は、三国志演義の大筋に依拠しない、新しい史実解釈を用いた小説として、大きな影響を与えた。この他曹操を完全なる主役格に据えた作品として、小説北方謙三作『三国志』が人気を獲得。漫画作品では李學仁原案(原作)・王欣太作画『蒼天航路』が登場するなど、若年層への影響力も大きい。これら作品を中心とした中での曹操の人気は非常に高く、劉備に勝るとも劣らない支持を得ている。
歴史学的には、まず中国における郭沫若らの曹操論争があって文学的な評価が進み、その流れを受けて日本でも、京都大学の谷川道雄、川勝義雄らによる曹操集団および曹魏政権に対する再評価が進んだ。川勝らの曹操ないし曹魏政権、魏晋南北朝理解に対して、越智重明・矢野主税などとの間では1950年代から1970年代の間に活発な議論があったが、結局明確な結論が出ないままに論争の時代が終わってしまうことになった。1990 年代以降、行き過ぎた曹操の再評価に対して抑制する動きが多く、また併せて川勝の理解に対しても修正する動きが見えている。
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