中国後漢末期の武将。呉郡富春県の人。三国時代に成立した呉の皇帝、孫権の父。廟号は始祖。諡は武烈皇帝。家系は孫氏。
司馬になった孫堅は、会稽郡で起こった許昌の乱を鎮圧した。
この時代、江東一帯には、宗教勢力がいたるところに存在していた。この乱の鎮圧後、孫堅はその功績により、いくつかの県の次官を歴任したが、どこでも評判は良く、役人も民衆も孫堅になついた。また、その間、自らの軍団の強化に努めた。
184年、太平道の張角によって勃発した宗教的な反乱である黄巾の乱の鎮圧のため、孫堅は、漢王朝の中朗将であった朱儁の下で参戦。黄巾の渠帥波才撃破に一役買っている。朱儁が汝南、潁川と転戦すると、孫堅もそれに従い軍功をあげていった。宛城の攻略においては、孫堅自ら先頭に立って城壁を登り、西南方面の官軍を率いて大勝利を収めている。この功績により、別部司馬となった。
186年、昇進すると同時に、涼州で辺章と韓遂が起こした反乱の鎮圧に向かう。当初、反乱鎮圧には中朗将の董卓があたっていたが、情勢は芳しくなかった。そこで董卓に代わり、司空の張温が指揮を執り、孫堅はその参軍として従軍した。董卓の度々の軍規違反に立腹した孫堅は、董卓を処刑するように張温に進言するが、涼州での行動に際して董卓の力が必要と見ていた張温に退けられている。後日、董卓はこの事をいずこからか漏れ聞いて、張温と孫堅を深く憎むようになった。
後漢の討伐軍の大軍が来ると聞いた辺章・韓遂軍は恐れをなして散りぢりになり、辺章と韓遂は降伏し、孫堅は議郎となった。
孫堅は荊州南部で起こった区星の反乱鎮圧の命を受け、長沙に太守として赴任して、様々な計略を用いて、この反乱を鎮圧した。区星の反乱を援助していた零陵や桂陽の二郡にも進出して、反乱を鎮圧した。この功績により孫堅は鳥程侯に封じられた。
このように、各地で人材を手に入れ、転戦して実戦経験も十分に積んだ孫堅の軍団は、やがて軍閥化しはじめる。
この頃、洛陽では、董卓が実権を握る。少帝を廃位し、献帝を擁立、張温を占いの結果の吉凶にかこつけて殺害するなど、横暴を行った董卓に対し、袁紹を中心として諸侯が董卓を討つべく挙兵した。孫堅もこれに応じて挙兵した。孫堅はまず、長沙から北上して荊州を通過する。この時、董卓への反意を表明していたものの、自らに対して日ごろから侮辱的な扱いをしてきた上司、荊州刺史王叡を殺害した。次には南陽郡太守の張咨も障害とみて、やはりこれを殺害する。さらに前進して魯陽の袁術に謁見したところ、袁術は上表して孫堅に破虜将軍代行、予州刺史を領させた。
この後、自軍に損害が出ることを嫌う諸侯が董卓軍とまともに争わない一方で、曹操や孫堅の率いる軍団は董卓軍とぶつかりあっていた。曹操軍が董卓配下の徐栄軍に敗れて脱落した後も、孫堅軍は董卓軍に挑み続け、敗れたこともあったが、陽人での戦いで大勝し董卓配下の華雄の首を挙げるなどの戦果をあげていった。董卓は孫堅の勢いに恐れをなし、李傕を使者に立てて懐柔しようと計るが、孫堅がこれを受け入れないと分かると遷都を決断し、洛陽の町を焼き払って、西へ逃れた。孫堅は洛陽に入った。董卓は陵墓を荒らして宝物を奪い取っていたが、孫堅は陵墓を修復し、あばかれた箇所を塞いでから、再び魯陽の袁術のもとに帰還した。
反董卓連合軍が事実上瓦解し、そのうち盟主である袁紹と、袁術が対立し始めると、諸国はこの争いを中心とした群雄割拠の様相を呈しだした。初平三年(192)、袁術は孫堅を使って襄陽の劉表を攻めさせた。
孫堅は、劉表配下の黄祖と一戦して打ち破り、襄陽を包囲した。しかし、襄陽近辺の峴山に孫堅が一人でいる時に、黄祖の部下に射殺された。『三国志』孫堅伝の注によれば、劉表の部下の呂公が落とした石に当たって即死した、ともある。
これにより孫堅軍は瓦解し、敗残の将兵は袁術軍に吸収されることとなった。この後、やがて長子である孫策が袁術から独立し、彼の事業を継ぐ事になる。
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