2008年11月01日

公孫讃 伯珪(こうそんさん)

本作での呼び名=モヤシ

後漢末期の武将。字は伯珪。大司馬劉虞を滅ぼし、群雄として割拠する。先祖代々二千石(郡太守クラス)であった有力豪族の子として生まれたが、生母の身分が低かったので、公孫家の一員とは認められず、あまり厚遇されなかった。若い頃に、遼西郡の門下書佐を勤めていた時に、聡明で、声が大きく、容姿が優れていたので、太守の侯氏から惚れ込まれ、侯氏の娘婿となる。そして侯氏の援助で廬植の下で劉備と共に勉学を学んだ。孝廉に推挙されて遼東属国長史となった河北の支配権をめぐって袁紹と争うが、敗れて自害した。従弟に公孫範・公孫越、子に公孫続らがいる。
公孫「讃」は当て字となっております。。。

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2008年11月02日

盧植 子幹(ろしょく)

本作での呼び名=じじぃ、先公

身長は8尺2寸(約195cm)で、声は鐘のように大きくよく響いたという。幼くして鄭玄とともに馬融に師事して儒学を学び、学び終えたあとは郷里へ帰って講学した。古今の書に通じ、博学で節義も高かったことから人望が厚かった。そのため霊帝の建寧中、朝廷に召しだされて博士となり、175年(熹平四年)、九江の南夷が反乱を起こすと、文武を兼ね備えたところを買われて九江の太守に任命された。その後、侍中、尚書と昇進を続けている。この間、東観で馬日磾や蔡邕・楊彪・韓説らとともに五経の校訂や漢紀の編纂にも携わっており、『尚書章句』や『礼記解詁』といった著作がある。また、党錮の禁による不遇時代(175年前後)には幽州郡で学舎を主宰し、劉備や公孫に学問を教えている。
192年(初平三年)に病死した。

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タグ:盧植 公孫讃
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2008年11月04日

劉焉 君郎(りゅうえん)

本作での呼び名=踏み台

江夏郡竟陵県の人。前漢の魯恭王・劉余(景帝の第4子)の末裔に当たる。なお、劉焉の先祖は章帝の時代の元和年間に中原から江夏郡に移住したといわれる(『蜀書』「劉二牧伝」)
後漢の宗室の一人という名門の血筋に加え、政治手腕に優れていたことで中郎となる。しかし、彼の学問の師であった祝恬の訃報を聞き、官職を辞し喪に服した。やがて陽城山で学問所を開いた。
後に彼は賢良方正に推挙されて司徒府に招かれた。やがて洛陽の県令、南陽郡太守、冀州刺史、宗正、太常(皇帝の祭祀を司る九卿の筆頭に当たる役職)などを歴任した。
『演義』では、黄巾の乱の時に幽州太守を務め、その時に劉備らと出会ったことにされているが、正史では劉焉が幽州太守(刺史・州牧)に任命された事項は無い。しかし、これが後に息子の劉璋が劉備を益州に迎え入れて彼を遠縁の親族として兄事する伏線となっている。

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タグ:劉焉 三国志
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2008年12月05日

鄒靖(すうせい)

本作での呼び名=田舎もん

後漢末期の武将。校尉、のち北軍中候。
184年、黄巾賊が蜂起すると、劉備を連れて討伐にあたった(『三国志』蜀先主伝)
185年、車騎将軍の皇甫嵩が韓遂・辺章の乱を討伐すべく、烏丸兵三千人の増援を要請したとき、北軍中候の鄒靖は烏丸兵は弱いので鮮卑兵を採用すべきだと意見した。しかし、車騎将軍掾の応劭が鮮卑兵は戦地で略奪を働くであろうと反対したため、鄒靖の意見は斥けられた。このとき鄒靖に同調した大将軍掾の韓卓の言によると、鄒靖は辺境近くで暮らしていて異民族たちの実態をよく知っていたという(『後漢書』応劭伝)
『三国志演義』では、黄巾が幽州に押し寄せた時、幽州太守の劉焉に 「賊は多く、我軍は手薄です。火急に兵を集め、備えるのが上策です。」 と述べた。 そして、義勇兵募集の高札を立てた。劉備が義勇兵を募り登場し、とも に黄巾を討伐した。青州太守キョウ景の援軍に向かい、青州黄巾を討伐 した後、盧植のもとに行く劉備と別れ引き揚げる。

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タグ:鄒靖
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2008年12月12日

張角(ちょうかく)

本作での呼び名=ペテン師

通称は大賢良師、天公将軍。太平道の教祖で冀州鉅鹿(現在の河北省平郷県)の人。生年は不詳。自らを大賢良師(または太平道人)他に天公将軍と称し、太平道の信者を集め、後漢末(184年)に「蒼天(後漢)已死 黄天(太平道)當立」というスローガンを掲げ、弟の張宝、張梁らと共に後漢に反旗を翻した。
蒼天已死 黄天當立 歳在甲子 天下大吉
このスローガンは従来五行の思想に基づく物であるとされているが、後漢は「火徳」(火・赤)の王朝であるという見方があるため、後漢を「蒼天」(木・青)と表現するのはおかしいのではないかという説もある。ただし、「蒼天已死」という文句は、張角以前に現れており、張角はそれを黄天に結びつけたのではないかとも言われている。
張角らの一党は「黄天」すなわち黄色をイメージカラーとし、黄色い布を頭に巻きつけた為「黄巾賊」と呼ばれた。張角が起こした反乱を「黄巾の乱」と呼ぶのはこれが由縁である。

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程遠志(ていえんし)

本作での呼び名=脇役

中国の通俗歴史小説『三国志演義』に登場する架空の人物。
黄巾賊の将で、5万の黄巾兵を率いて幽州を襲撃する。大興山の麓で劉備率いる5百の義勇軍と合戦になるが、副将のケ茂が初陣の張飛に突き殺されたのを見て彼に斬りかかる。そこへ、同じく初陣の関羽が討って出て、一合も交える事無く関羽に真っ二つに斬られて果てる。
横山光輝『三国志』では劉備率いる義勇軍を乞食部隊とあざ笑って出撃したが、トウ茂が関羽に、自身は張飛によって一撃で斬殺されている。

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ケ茂(とうも)

本作での呼び名=脇役

中国の通俗歴史小説『三国演義』に登場する架空の人物。
黄巾賊の頭目の1人。黄巾の乱の折、幽州で黄巾賊の程遠志の下で暴れていたが、当時義勇軍にいた劉備配下の張飛に、愛用武器であった蛇矛で突き殺される。

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2008年12月17日

朱儁 公偉(しゅしゅん)

本作での呼び名=右

若い頃から義を好み智勇に優れるが、三国志演義では、黄巾族討伐軍で麾下に加わった劉備らに翻弄され、その後劉備の功績をすべて自分のものにしてしまった無能で欲深い将軍として描かれているが、実際の朱儁は何度も功績を立てた名将であり、反乱が起こるたびに各地へ派遣され、平定しては呼び戻されているなど、中央からの信頼の厚さをうかがわせる。
その生い立ちを見ると、「若くして父を失い、母がいつも絹を売って生計を立てていた。朱儁は孝養を尽くして評判となり、県の門下書佐となった。義侠を好んで財貨を軽んじたので、郷里の人々は彼に敬服した」(『朱儁伝』)とあり、劉備と同じような生活環境であったが、正攻法で身を立て、実績を挙げて栄達した人物といえる。
同じような環境で育ちながら、劉備は度量のある有能な人物に描かれ、一方で朱儁は狭量で無能な人物に描かれているが、『演義』において劉備ら主役を引き立てるために創作・改変されてしまった多くの人物の一人といえるだろう。

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タグ:朱儁
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皇甫嵩 義真(こうほすう)

本作での呼び名=左

安定郡朝那県出身。皇甫棱の曾孫、扶風都尉皇甫旗の孫、皇甫節の子、度遼将軍皇甫規の甥、皇甫堅・皇甫寿(もしくは堅寿)の父、皇甫謐の曾祖父、皇甫酈の従父。
霊帝の在位中、議郎、北地太守を務める。黄巾の乱勃発の際、左中郎将に任命され乱鎮圧に向かう。当初は劣勢であったが、潁川、汝南、陳、東郡の各地を転戦し勝利を上げ、ついに広宗の戦いで黄巾賊の首領張角の弟張梁を討つとともに、病死していた張角の棺を壊し首を首都(洛陽)へ送る。さらに曲陽では張角の弟張宝を討ち、黄巾軍の討伐に成功する。この功により、左車騎将軍に任命され、槐里侯に封じられ八千戸の食邑を与えられ、冀州牧を命じられる。
その頃、冀州の信都の令であった閻忠は皇甫嵩へ、世は乱れており自身の名声と行いが自身に災いを招くこと、それを避けるために独立して軍兵を動かし天下を一つにまとめ、民心に従い漢王朝に代わり帝位に就くようにと、韓信の故事を引いて説得した。しかし皇甫嵩は拒絶し、閻忠は逃亡した。
辺章ら反乱軍の討伐を命じられ功をあげるが、中常侍の法令違反を上奏し、賄賂の要求を拒否したため中常侍に讒言され、左車騎将軍と食邑六千戸を取り上げられ都郷侯に封じられた。
188年、賊の王国が陳倉を攻撃した際、皇甫嵩が討伐を命じられ、董卓の軍を率いて向かった。その軍中で董卓の提案する策をいずれも退け、その正反対の策を用い勝利を収める。このことから董卓に憎まれることになる。同年中に二度にわたって、朝廷から董卓に対し、軍権を皇甫嵩に渡して帰還するよう指示が届くが、董卓は拒否し、彼は朝廷に事の次第を上書、争いは決定的となり、後に董卓が中央で政権を取ると召還されて逮捕投獄される。危うく死刑になりかけるが、董卓と親しくしていた息子堅寿の取りなしで免罪され、議郎に任じられた。 後、董卓が太師となり壇上へ赴く際、彼一人が頭を下げなかったので「義真、まだかな?」と問われ、「これは失礼した。」と謝罪をしている。
王允・呂布による董卓殺害後は再び栄進し、征西将軍、車騎将軍、太尉にまで登りつめたが、その直後の195年に病没。驃騎将軍の印綬が贈られた。

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タグ:皇甫嵩
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2008年12月22日

張宝(ちょうほう)

本作での呼び名=脇役

後漢末期に黄巾の乱を起こした指導者・張角の次弟。
兄が黄巾の乱を起こすと弟の張梁と共にこれを補佐し、『地公将軍』と自称した。兄・張角は反乱を起こしたときにはすでに病に倒れていたため、実質的には張宝が指揮を執っていたといわれている。
しかし官軍が態勢を整えると、黄巾軍は敗北し広宗に籠城、籠城中に張角は病死し、張梁は戦死する。残る張宝は下曲陽に籠城したが、皇甫嵩率いる官軍に大敗し、首は京観として城南の塚に埋められた。
三国志演義では張宝は妖術を使うことを得意とし、その妖術をもって官軍を何度も撃破しているが、朱儁の策で術を破られ敗走し、のちに部下の厳政に殺された。吉川英治の小説では劉備軍の奇襲を受け同士討ちを始めたところを劉備に弓で射殺されている。


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