本作での呼び名=ぶつぶつ
初平3年4月23日(192年5月22日))は後漢末期の軍人・政治家。献帝を擁し、宮廷で権勢をほしいままにしたが、養子の呂布に殺された。
隴西郡臨洮の出身。字は仲穎(ちゅうえい)。父は董君雅、兄に董擢、弟に董旻がいる。名は不明だが早世した子、甥に董璜、孫娘に董白がいる。
中平元年(184年)、東中郎将に任命され黄巾賊を討伐にでるも、敗退して職を免ぜられる。同年冬、西涼の辺章・韓遂・馬騰らが羌・胡の協力を得て反乱を起こすと、翌中平2年(185年)、董卓は再び中郎将に返り咲いて反乱鎮圧に向かい、破虜将軍に任ぜられた。中平5年(188年)には黄巾賊の鎮圧に出動したが、彼の作戦は的を射ておらず、手柄を皇甫嵩に全て奪われてしまう。その後、朝廷から軍を皇甫嵩に引き渡して帰還を促す命令を受けるが、辺地の治安悪化を理由に拒否して駐屯を続け、翌年中平6年(189年)并州牧となる。 なお、并州牧任官と同時に、軍を手放すよう二度目の命令を受けたが、彼は再び拒否している。
中平6年に霊帝が没すると、大将軍の何進らは宦官を一掃しようと計画し、何進に召し出された董卓は首都洛陽に軍勢を進めた。宦官誅滅計画が進む中、何進は殺され、袁紹らの反撃に宦官の一人中常侍の段珪が新帝劉弁(少帝)とその弟の陳留王を連れ去ったが、董卓がこれを救出した。董卓は二人と会話をしながら帰路についたが、この時劉弁は満足な会話さえ十分にできなかったのに対して、陳留王は乱の経緯など一連の事情を滞りなく話して見せたことから、陳留王の方が賢いと思ったという。
董卓が洛陽に入った時は3000ほどの兵力しかなかったので、何進の軍勢を吸収して軍事力で政権を手中におさめた。また執金吾の丁原の軍士を取り込むべく丁原を暗殺しようとする。丁原の部下には武勇の士として名高い呂布がおり、暗殺は失敗してしまうがその呂布がまもなく董卓の誘いにのり丁原を殺害して董卓に帰順してしまう。(演義では董卓は部下の李粛(呂布とは同郷)から提案された、「赤兎馬を贈呈して寝返らせる」という策を実行し、呂布はその見返りに上司の丁原を殺害して、董卓に帰順したとする)。董卓は丁原軍の兵をも吸収して大兵力を握った。
その後太尉に、ついで相国となり(演義では太師と呼ばれている)、朝廷でゆっくり歩くことと帯剣を許された。位人臣を極めた董卓は暴虐の限りを尽くし、洛陽の富豪を襲って金品を奪ったり、村祭りに参加していた農民を皆殺しにしたり、色香に飢えた董卓の蛮兵が毎夜のごとく女官を凌辱したり悪道非道を重ねた。
これに反発した袁紹・袁術などの有力者は、橋瑁の呼びかけ(三国志演義では曹操)で反董卓連合軍を組織した。董卓は弘農王を毒殺し、防衛に不利な洛陽を避け長安に強制的に遷都し、洛陽の歴代皇帝の墓を暴いて財宝を手に入れ、宮殿・民家を焼きはらった。その後も董卓は洛陽に駐屯し、反董卓連合軍を迎え撃った。董卓は河陽津で陽動作戦を用いて王匡を大いに破った。また徐栄を派遣して、滎陽県汴水で曹操・鮑信を大いに破り、また梁県で孫堅を破った。しかし、その後、董卓軍は孫堅との戦いに敗れ、洛陽の町を焼き払い、長安に撤退した。しかし(演義では董卓が焦土作戦をとったため補給が困難になったこともあり)董卓の長安撤退後に劉袋と橋瑁が反目し橋瑁が殺害されたり糧抹が尽きるなどして連合軍は自然解散となり、有力者は各自の勢力拡大に走った。
しかし初平3年4月(192年)、董卓は司徒王允と呂布により暗殺された。親子の契りを結んだ呂布が董卓を殺害した原因について、正史では、小さな過失から呂布は董卓に殺されかけたことがあり、それ以来恨みを持つようになったため、あるいは董卓の侍女と密通したことの発覚を恐れたためなどの記事がある。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
posted by うさんく斎 at 00:00
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登場人物 「その他」
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