2008年12月22日

張梁(ちょうりょう)

本作での呼び名=脇役

張角、張宝の弟。人公将軍を自称。
兄達と共に黄巾の乱を起こす。反乱軍を指揮し官軍を苦しめた。長兄の張角が病死後も軍を引き継いで官軍と戦うが、張角が病死したことで勢いづいた官軍を止めきれず、184年10月、広宗にて皇甫嵩軍に敗れ戦死する。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
posted by うさんく斎 at 01:04 | Comment(0) | TrackBack(0) | 登場人物 「その他」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2008年12月24日

彭脱(ほうだつ)

本作での呼び名=脇役

黄巾の乱時(184)の潁川黄巾賊の将帥。
中平元年(184)、黄巾賊の叛乱中、長社県の戦闘の後に汝南郡・陳郡と平定した皇甫嵩・朱儁に西華県で敗れる。
波才の副将あたりだったのかもしれないが、詳しい記述がない。

出典:三国志辞典

タグ:彭脱 波才
posted by うさんく斎 at 00:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 登場人物 「その他」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

波才(はさい)

本作での呼び名=脇役

中国、後漢末期の人物。184年に起こった黄巾の乱の潁川黄巾軍の指揮官の1人。正史三国志や三国志演義には登場せず、後漢書に記述がある。
184年春、張角の挙兵に呼応して南陽郡の張曼成、博陵郡の張牛角・張燕らと同時に挙兵した。潁川郡にて朱儁等の官軍を相手に善戦し撃破する。波才はこの機を逃すまいと、籠城する皇甫嵩・朱儁を包囲することに成功し、はじめは戦いを有利に進める。しかし5月、潁川郡において皇甫嵩の強風を利用した火計と曹操の援軍によって大敗を喫し、あえなく戦死した。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
タグ:黄巾賊 波才
posted by うさんく斎 at 12:37 | Comment(0) | TrackBack(0) | 登場人物 「その他」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2008年12月25日

董卓 仲穎(とうたく)

本作での呼び名=ぶつぶつ

初平3年4月23日(192年5月22日))は後漢末期の軍人・政治家。献帝を擁し、宮廷で権勢をほしいままにしたが、養子の呂布に殺された。
隴西郡臨洮の出身。字は仲穎(ちゅうえい)。父は董君雅、兄に董擢、弟に董旻がいる。名は不明だが早世した子、甥に董璜、孫娘に董白がいる。
中平元年(184年)、東中郎将に任命され黄巾賊を討伐にでるも、敗退して職を免ぜられる。同年冬、西涼の辺章・韓遂・馬騰らが羌・胡の協力を得て反乱を起こすと、翌中平2年(185年)、董卓は再び中郎将に返り咲いて反乱鎮圧に向かい、破虜将軍に任ぜられた。中平5年(188年)には黄巾賊の鎮圧に出動したが、彼の作戦は的を射ておらず、手柄を皇甫嵩に全て奪われてしまう。その後、朝廷から軍を皇甫嵩に引き渡して帰還を促す命令を受けるが、辺地の治安悪化を理由に拒否して駐屯を続け、翌年中平6年(189年)并州牧となる。 なお、并州牧任官と同時に、軍を手放すよう二度目の命令を受けたが、彼は再び拒否している。
中平6年に霊帝が没すると、大将軍の何進らは宦官を一掃しようと計画し、何進に召し出された董卓は首都洛陽に軍勢を進めた。宦官誅滅計画が進む中、何進は殺され、袁紹らの反撃に宦官の一人中常侍の段珪が新帝劉弁(少帝)とその弟の陳留王を連れ去ったが、董卓がこれを救出した。董卓は二人と会話をしながら帰路についたが、この時劉弁は満足な会話さえ十分にできなかったのに対して、陳留王は乱の経緯など一連の事情を滞りなく話して見せたことから、陳留王の方が賢いと思ったという。
董卓が洛陽に入った時は3000ほどの兵力しかなかったので、何進の軍勢を吸収して軍事力で政権を手中におさめた。また執金吾の丁原の軍士を取り込むべく丁原を暗殺しようとする。丁原の部下には武勇の士として名高い呂布がおり、暗殺は失敗してしまうがその呂布がまもなく董卓の誘いにのり丁原を殺害して董卓に帰順してしまう。(演義では董卓は部下の李粛(呂布とは同郷)から提案された、「赤兎馬を贈呈して寝返らせる」という策を実行し、呂布はその見返りに上司の丁原を殺害して、董卓に帰順したとする)。董卓は丁原軍の兵をも吸収して大兵力を握った。
その後太尉に、ついで相国となり(演義では太師と呼ばれている)、朝廷でゆっくり歩くことと帯剣を許された。位人臣を極めた董卓は暴虐の限りを尽くし、洛陽の富豪を襲って金品を奪ったり、村祭りに参加していた農民を皆殺しにしたり、色香に飢えた董卓の蛮兵が毎夜のごとく女官を凌辱したり悪道非道を重ねた。

これに反発した袁紹・袁術などの有力者は、橋瑁の呼びかけ(三国志演義では曹操)で反董卓連合軍を組織した。董卓は弘農王を毒殺し、防衛に不利な洛陽を避け長安に強制的に遷都し、洛陽の歴代皇帝の墓を暴いて財宝を手に入れ、宮殿・民家を焼きはらった。その後も董卓は洛陽に駐屯し、反董卓連合軍を迎え撃った。董卓は河陽津で陽動作戦を用いて王匡を大いに破った。また徐栄を派遣して、滎陽県汴水で曹操・鮑信を大いに破り、また梁県で孫堅を破った。しかし、その後、董卓軍は孫堅との戦いに敗れ、洛陽の町を焼き払い、長安に撤退した。しかし(演義では董卓が焦土作戦をとったため補給が困難になったこともあり)董卓の長安撤退後に劉袋と橋瑁が反目し橋瑁が殺害されたり糧抹が尽きるなどして連合軍は自然解散となり、有力者は各自の勢力拡大に走った。
しかし初平3年4月(192年)、董卓は司徒王允と呂布により暗殺された。親子の契りを結んだ呂布が董卓を殺害した原因について、正史では、小さな過失から呂布は董卓に殺されかけたことがあり、それ以来恨みを持つようになったため、あるいは董卓の侍女と密通したことの発覚を恐れたためなどの記事がある。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
タグ:董卓
posted by うさんく斎 at 00:00 | Comment(96) | TrackBack(0) | 登場人物 「その他」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2008年12月26日

張曼成(ちょうまんせい)

本作での呼び名=脇役

後漢末の黄巾の乱、南陽黄巾軍の指導者。184年、太平道大方(黄巾軍の総司令官)である馬元義が漢軍に捕らえられ処刑されると、張曼成は南陽にて民衆を集め挙兵した。3月に南陽太守褚貢を殺害後、宛県城を拠点としたが、6月に新たに南陽太守秦頡の軍勢に破れ処刑された。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
posted by うさんく斎 at 00:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 登場人物 「その他」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

韓忠(かんちゅう)

本作での呼び名=脇役

南陽黄巾軍(黄巾賊)の指揮官の1人。
中平1年(184年)、南陽黄巾軍総帥張曼成の配下として、宛城に據って官軍の朱儁らと対峙した。張曼成とその後継者の趙弘が相次いで朱儁らに討ち取られると、韓忠がさらにその後継者となって引き続き抵抗した。しかし朱儁の用兵の前に追い詰められ、降伏しようとしたが赦されず捕えられ、朱儁の副将を務めていた南陽太守秦頡に処刑された。韓忠の後を孫夏が引き継いだが、これも朱儁に敗れて戦死し、ついに南陽黄巾軍は滅亡した。
『三国演義』では同僚の孫仲・趙弘と共に宛城に立て篭もり、官軍の朱儁・劉備と戦った。やはり降伏を許されずに逃亡しようとしたが、矢に当たり戦死した。


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
タグ:韓忠 黄巾賊
posted by うさんく斎 at 00:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 登場人物 「その他」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

趙弘(ちょうこう)

官軍の朱儁・劉備の軍に追い立てられ、宛城に立てこもります。降伏を願い出るも、朱儁はそれを許さず、死にものぐるいで戦うことになりました。
演義では、劉備の献策で、一方の囲みを解き、逃げるところを討ち取る作戦をとり、趙弘は援軍で来た孫堅に、韓忠は劉備三兄弟の矢に、孫仲は劉備の放った矢に、それぞれ討ち取られました。
正史では、韓忠は朱儁の部下である秦頡に討ち取られています。他の2人は記載がなく、そもそも存在しなかったようです。

出典:三国志ドライヴ
タグ:趙弘 黄巾賊
posted by うさんく斎 at 00:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 登場人物 「その他」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2008年12月30日

何進 遂高(かしん)

本作での呼び名=

何氏の家は元は屠殺業であったとされるが、基本的には南陽の有力豪族であろうと考えられる。同郡出身の宦官郭勝の後押しがあって異母妹が宮中に入ったが、彼女が霊帝に見初められついには皇后となったことが何進の栄達につながった。184年に黄巾の乱が勃発すると大将軍となり、乱の鎮圧に当たった。何進自身は戦地には赴かず、黄巾の乱後の各地の反乱でも常に洛陽に居たため、実質的な指揮者は張温、皇甫嵩、朱儁、盧植、董卓、周慎らであった。この頃、中央では霊帝の皇后何氏と霊帝の母董氏の間で激しい対立があった。黄巾の乱が鎮定されると霊帝の軍制改革が行われた[1]が、西園三軍(西園八校尉)を設置し、上軍校尉に大将軍以下を総領する権限を与えたために、董氏と何氏の対立は宦官蹇碩を巻き込んで激化した。これに対して中軍校尉の袁紹は何進と積極的に結びついて蹇碩らと対立し、追い詰められた蹇碩が何進の誅殺を企てたところで、宦官は郭勝を中心として蹇碩を見捨て、何進に与した。その結果、ついに蹇碩ならびに董氏一党は排除された。
霊帝が死ぬと、それまでの悪政で朝野に鬱積していた不満が爆発し、特に宦官が世論の批判を浴びるようになった。そこで何進は蹇碩に殺されかけた怒りもあって宦官の排除に乗り出し、袁紹ら幕僚たちを集めて積極的に諮ったが、何皇太后や弟の何苗は宦官を擁護したため、何氏同士で対立が生じる構図にもなった。
何皇太后が兄に対して宦官を弁護したため何進が争いに及び腰になると、袁紹は地方の諸将を都に呼び寄せて太后らに圧力をかけることを提案する。これに対して盧植・陳琳が反対したが、再三の袁紹の催促の結果、何進はこれを容れた。このとき曹操も反対したと王沈の『魏書』では伝えるが、このころの曹操にはまだ政治的な発言力が無く、歴史的意味合いはない。また、袁紹が大将軍の命と偽って各地に指令を出したこともあった。このような緊迫した情勢のため、袁紹は何進に対して宮中に軽々しく入るべきではないと忠告していたが、何進は無警戒に宮中に参内したところを宦官によって殺害されてしまった。


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
タグ:何進
posted by うさんく斎 at 00:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 登場人物 「その他」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

霊帝(れいてい)

本作での呼び名=

桓帝(劉志)に子がいなかったために、桓帝の崩御後に陳蕃らにより擁立された。宦官と外戚の権力闘争で疲弊したと評価される後漢であるが、霊帝の治世になり宦官の優位が決定的となる。即位の翌年陳蕃らによる宦官排斥が計画されるが、事前に露見し宦官らの逆襲を受け桓帝時代の外戚は排除され、宦官が権力を掌握した。霊帝本人は暗愚な人物で、宮殿内で商人のまねをしたり酒と女に溺れて朝政に関心を示さず、政治の実権は張譲ら十常侍と呼ばれる宦官らに専断されることとなった。 また、売官を行うなど「銅臭政治」と呼ばれる、賄賂がまかり通る悪政を行ったため、売官により官職を得た者による苛斂誅求により民力は疲弊し、同時に治安の悪化を惹起したため後漢の国勢はますます衰退していく。
社会が不安定な184年、大賢良師・張角を首領とする黄巾の乱が発生する。反乱により後漢王朝は危機に見舞われたが、董卓や皇甫嵩ら地方豪族の協力と、張角の急死により鎮圧に成功した。しかし、反乱により後漢正規軍の無力化が露呈し、地方豪族の台頭を許すこととなった。
189年、国内がさらに乱れる中で崩御。後継者を明確に定めていなかったため、崩御後に実子の劉弁と劉協との間で皇位継承争いが起こることとなった。
霊帝の時代は宦官を重用し、民衆に重い賦役を課して民心は完全に離反した。黄巾の乱の結果、皇帝権力が衰退して地方豪族の力が強大化し、三国時代への前段階の時代となっている。


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
posted by うさんく斎 at 00:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 登場人物 「その他」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

張鈞(ちょうきん)

本作での呼び名=

後漢霊帝後期の郎中。
中平元年(184)、黄巾賊の叛乱が起きると郎中張鈞は霊帝に「民衆が黄巾賊に参加したのは、十常侍の親類縁者が州郡の要職にあって民衆を侵害し蓄財に耽った為で、十常侍を斬れば軍を動かすことなく叛乱を鎮圧できる」と上奏した。霊帝はその上奏文を張譲らに見せてその旨を問い質したが、張譲らが官を辞し家財を軍費の助けにと差し出した為に許され復帰した。霊帝は怒って張鈞を黄巾賊の一味として逮捕し、張鈞は獄中で死亡した。

出典:三国志事典15X-31X
タグ:張鈞
posted by うさんく斎 at 21:57 | Comment(0) | TrackBack(0) | 登場人物 「その他」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は90日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。