2008年10月26日

三国志 簡易年表

155年
曹操生まれる。

157年
孫堅、生まれる

161年
劉備生まれる

163年
荀ケ生まれる

166年
第一次党錮の禁
大秦王安敦(マルクス=アウレリウス)の使者来る

167年
桓帝死す(位146〜167)
霊帝即位

168年
外戚の大将軍竇武、大傅陳蕃を中常侍曹節が処刑
宦官が外戚、官僚を一掃

169年
第二次党錮の禁

175年
曹操、孝廉に推挙され朗となる
孫策、周瑜生まれる

181年
諸葛亮生まれる
霊帝、模擬店舗で遊ぶ

182年
孫権生まれる

184年←今ココ
太平道の張角、蜂起する(黄巾の乱勃発)
皇甫嵩、曹操ら黄巾の乱を鎮圧する

185年
韓遂、蜂起

187年
曹丕生まれる

188年
西園八校尉設置
曹操、西園八校尉の一つ典軍校尉に就任
劉焉、蜀に赴き独立勢力に

189年
霊帝死す
少帝即位
外戚の大将軍何進宦官殺害計画を立てるが逆に殺される
董卓、何進の招きに応じ洛陽に入り
少帝を廃し、献帝を擁立する。
曹操、董卓に招かれるも辞退。故郷に逃げ帰り、
反董卓の兵を集める

190年
董卓の少帝廃立に反対し、袁紹を盟主とした、
十七鎮の諸侯が挙兵
董卓、献帝らを長安に移らせ、洛陽を焼き払う
反董卓連合、曹操ひとり奮闘するも、敗れる
劉岱、橋瑁を殺害
袁紹と韓馥、劉虞を皇帝に立てようと計画し
曹操に持ちかけるが、反対される。曹操、袁紹を私欲の男とみなす

191年
袁紹と韓馥、劉虞を擁立するも、劉虞は、あくまでも受けず
袁紹、韓馥を脅して、冀州を奪う
孫堅、洛陽に入る
孫堅、袁術の命で劉表を攻めるが、黄祖の配下に討ち取られる

192年
曹操、袁紹の要請を受け、黒山の賊、匈奴を討つ
司徒王允、呂布と共謀し、董卓を殺害
董卓の将軍、李と郭氾、王允、呂布を攻め王允を殺害、呂布は敗走。李ら、朝政を思いのままにする
青州黄巾賊、州に侵攻し、劉岱を討ち取る
鮑信、曹操に州牧を引きうせさせ、曹操と共に奮闘するも討ち死に。
曹操、青州黄巾賊を打破、降伏を受け入れ、兵士三十万と
百万の民を得、青州兵と名付ける。
袁術と袁紹が仲違いをし、公孫は袁術の依頼を受け劉備、陶謙と共に、袁紹を攻めるも、曹操が袁紹に援軍を出し敗退
曹植生まれる

193年
袁術、黒山の残賊と共に曹操を攻めるも、
劉表に糧道を断たれ、曹操に大敗。
陶謙、自称天子の闕宣と手を組み、周囲を略奪し、遂には闕宣を殺しその兵を収める
曹嵩、曹操に会いに行く途中、陶謙領で陶謙の配下に殺害される
曹操、陶謙を攻め陶謙領の城十余を落す
公孫、幽州牧劉虞を攻め、殺す
孫策、袁術の指示で江東を攻め、自らの手中に収める(会稽を196年に落とす)

194年
曹操大挙して陶謙領を攻めるも張が、呂布を迎え謀反を起したため退却
この戦いの際に曹操は、住民を多く虐殺した
曹操、呂布と戦い負傷する。戦いは、両軍共に食料が尽き引き上げた
陶謙死亡、劉備が後を継ぐ
大飢饉起こる
劉焉死去。子の劉璋が後を継ぐ

195年
曹操、呂布と度々戦いこれを打ち負かす。呂布は劉備の下に敗走
曹操、張を攻め、彼の三族皆殺しにする
張は逃げるも部下に殺される
李、献帝を強奪。皇甫嵩、憤死

196年
曹操、洛陽に献帝を迎え、許昌に献帝を移す
曹操、楊奉を討つ
袁紹、曹操により、大将軍に任命される
棗祗と韓浩、屯田制を曹操に献策し、屯田制が実施される
呂布、劉備を襲撃する。劉備、曹操の下に逃げ、曹操、これを保護する
張済死す、甥の張繍がその軍を支配する

197年
張繍、曹操に降るも、謀反。曹操の不意をつき、曹操の長子曹昂と甥の曹安民を討ち取り、
曹操に怪我を負わす。その後もしばしば戦う
袁術、帝位を称したが、呂布に反対され呂布を攻めるも大敗
袁術、曹操領を攻めるが、曹操自ら出てくると逃亡

198年
劉備は、徐州に帰ったが、呂布、袁術と再び組み、
高順を遣わし劉備を討つ
曹操、劉備の援軍に夏侯惇を出すも敗れる
曹操、自ら呂布を攻め、水攻めにより勝つ。呂布と陳宮を捕らえて処刑
劉備は、再び曹操の下へ
孫策、討逆将軍、呉侯に就く
衡、劉表の配下黄祖に殺される

199年
曹操、袁紹に降った賊を討ち、袁紹と対立
公孫、袁紹に敗れ、自刃
曹操、官渡に陣を敷く
張繍、曹操に降り、列侯に封じられる
袁術、袁紹を頼って逃げるが、曹操が劉備、朱霊を遣わした。袁術は、道途中で病死
劉備、袁術征伐の際徐州を乗っ取り、曹操の追っ手を退ける

200年
董承ら、曹操の暗殺を企てるも、発覚。全員処刑。
曹操、自ら劉備を討ち、劉備は袁紹の下に逃げ、
関羽は曹操に降伏する。
袁紹の将顔良ら、白馬の劉延を攻めるが、
曹操の奇策により関羽、張遼が、顔良を斬る
文醜、劉備と共に曹操を攻めるが、囮に引っかかり、顔良は討ち死に
関羽、劉備の下に逃げ帰る
劉備、反乱を起した汝南の劉辟を助けるも、曹仁に打ち破られる
孫策、許昌を襲撃しようとするが、刺客により暗殺される。
後継は弟の孫権
袁紹の将許攸、曹操に寝返り、兵糧の輸送路をばらし、曹操、袁紹の兵糧を大量に焼き払う袁紹、その隙に本陣を攻めようとするも失敗し壊走

201年
袁紹、旧領回復に奮闘
劉備、汝南で曹操に対するも、曹操自ら来るや、劉表の下へ逃げる

202年
袁紹、病死。末子袁尚が後を継ぐ。長子袁譚は、独立した勢力を作る
曹操、袁尚と袁譚を討ち連戦連勝
姜維、生まれる

203年
曹操、劉表を攻める
袁尚と袁譚、相争い、袁譚、敗れて曹操に降る
孫権、黄祖を攻める

204年
曹操、袁尚を攻め、業を占領する
曹操、冀州牧に就任
袁譚、曹操に敗れた袁尚を攻めその兵を乗っ取り、南皮に篭る

205年
曹操、袁譚を討ち滅ぼして斬る
袁尚、配下の焦触、張南に裏切られ、烏丸に弟袁熙と共に逃げる
高幹、曹操に降っていたが謀反
黒山賊の張燕、曹操に降る

206年
楽進と李典、高幹を攻める。高幹は荊州に逃れようとしたが
見つかり斬られる

207年
曹操、烏丸を攻め、その主とうとんを討ち取る
袁尚と袁熙、遼東に逃げるが、遼東の君主公孫康は彼らを斬り、首を曹操に送る

208年←映画レッドクリフ
曹操、玄武池を造り水軍の訓練をする。曹操、丞相に就任
孫権、黄祖を攻め討ち取る
孔融、曹操に処刑される
曹操、劉表を攻める
劉表病死。劉そうが後を継ぎ曹操に降伏
孫権、劉備の協力し合肥を攻めるも敗退
劉備と孫権の将周瑜、赤壁で曹操を打ち破る

209年
劉備、孫権の妹孫尚香を娶る

210年
曹操、銅雀台を築く
周瑜、蜀を攻めようと準備するが、半ばにして死亡

211年
張魯、漢中を占拠し、曹操、錘、夏侯淵に討伐さす
馬超と韓遂、関西で兵を起こし、曹操、自ら攻伐に赴き乱を治める
劉備、入蜀

212年
荀ケ、曹操の帝位就任問題で対立し服毒死

213年
曹操、孫権を攻めこれを打ち破る
曹操、魏公に就く
馬超と韓遂、再び乱を起こす

214年
馬超、戦いに敗れ漢中に逃げる。韓遂は再び戦いを挑むも敗退
曹操、孫権を攻めるも敗退
劉備、蜀都成都を包囲、劉璋が降伏して蜀の地を手に入れる。統、戦死
荀攸死去

215年
韓遂死す
曹操、張魯を攻め、張魯は降伏
孫権、合肥を攻めるが、張遼に撃ち破られる
劉備、劉璋を攻め、益州を手中にいれる

216年
曹操、魏王に就く

217年
曹操、孫権を攻め勝つ
曹丕、太子に立てられる
孫権、曹操に降る

218年
軍医吉本と耿紀らが反乱を起こすが、王必によって治められる
王必、反乱鎮圧の際の矢傷が元で死亡
曹洪、劉備の将呉蘭を攻め大勝。呉蘭はていに逃亡するも、殺される

219年
夏侯淵、劉備を攻めるが大敗、夏侯淵は黄忠に斬られる
曹操、漢中の劉備を攻めるが敗退
劉備、漢中王を称す
関羽、曹仁を攻め、援将于禁を捕らえ、悳を斬るが、孫権が裏切り敗走

220年
孫権、関羽を捕らえ斬り曹操に首を送る
曹操死す、諡を武王、後に武皇帝。
夏侯惇死す
蜀漢の将孟達、魏に降伏
献帝、曹丕に禅譲し山陽公に。曹丕、皇帝に即位。魏王朝建国
曹嵩、太皇帝に追尊される
陳羣、九品官人法を定める

221年
孫権、魏に使者を送り、大将軍、呉王に任じられる
曹丕の正妻甄氏、曹丕に自殺に追い込まれて死亡
張飛、部下に殺される
劉備、帝位に昇る

222年
夷陵の戦い。劉備、孫権を攻めるも大敗
孫権、人質問題で魏を裏切る。曹丕、討伐に向かうも、
孫権、長江に塁を固めて守り、曹丕は退却
呉蜀外交関係を修復

223年
曹仁死亡
曹彰死亡
呉の朱桓、魏の曹仁を攻め、大勝
劉備逝去。後継ぎは、息子の劉禅。補佐は諸葛亮
呉蜀同盟

225年
諸葛亮、南征。孟獲を降す

226年
曹丕死す。諡は文帝。
曹叡帝位に就く
孫権、魏を2度せめるも、司馬懿らに防がれる

227年
孟達反乱

228年
司馬懿、孟達を攻め、攻め殺す
蜀漢の将諸葛亮、北伐を実行するも、街亭にて敗退
曹休、呉を攻めたが、周鮑の羊降に引っかかり大敗。
曹休は、それが元で病死
王朗死亡
諸葛亮、二次北伐開始するが、陳倉の昭奮戦により敗退
公孫淵、公孫恭の位を強奪し遼東太守に就く

229年
曹騰、高皇帝に追尊
孫権、帝位に就く

230年
錘死去
司馬懿と曹真、蜀漢を攻めたが敗北
曹操の正妻卞氏崩御

231年
諸葛亮、再度北伐を試みるも、司馬懿に阻まれ失敗
華死す

232年
曹植死す

233年
陳寿生まれる
公孫淵、呉に服属するふりをし、呉を誑かし呉の使者を殺し、魏に服属する

234年
献帝死去
諸葛亮、北伐を行い、司馬懿と五丈原で対峙する。
孫権合肥を攻めるが、曹叡と満寵に防がれる
諸葛亮、陣没

235年
曹丕の皇后郭氏崩御

236年
陳羣死去

237年
孫権の将朱然、魏の江夏郡を攻めたが敗退
公孫淵、謀反を起こし、母丘倹、討伐に向かうが長雨の為退却
公孫淵は、燕王になる
曹叡、毛皇后を殺し郭皇后を立てる

238年
司馬懿、公孫淵を攻め、公孫淵を殺す
倭の女王卑弥呼の使者難升米、魏の都に赴く

239年
曹叡崩御。諡を明帝
明帝の養子の斉王曹芳、帝位に就く。補佐は司馬懿と曹爽(曹芳が8歳であった為)

240年
黄権死去

241年
呉の朱然ら、魏の襄陽郡を攻めるが、司馬懿に防がれる
呉の太子孫登死去

242年
満寵死す
曹髦生まれる(241?)

243年
倭の女王卑弥呼、魏に使いを送る

244年
曹爽、蜀を攻めるが敗北

245年
孫権の太子孫和と孫覇対立が激化し、巻き込まれて張休、陸遜らが死亡
蜀漢のしょうえん、董允が死去

246年
母丘倹、高句麗を討伐し勝利を収める
朱然、柤中に侵入し、曹爽討伐に出るも、司馬懿の助言を聞かず敗退

247年
蜀漢の姜維、魏を攻め、夏侯覇、郭淮と争う

249年
司馬懿クーデターを起こし曹爽の一族を殺す(一応、司馬懿が曹爽ら一味のクーデターを暴き(でっち上げ?)三族皆殺した。という事になっている)夏侯覇は蜀漢に亡命
朱然、死去
姜維、北伐を行うが、郭淮らに防がれる

250年
王昶、呉を急襲し勝利を得る
孫権、太子そ孫和を廃し、孫覇を自殺させその郎党を誅殺し、孫亮を太子に立てる後見に諸葛恪

251年
王基と州泰、呉を攻め勝つ
魏の大尉王クーデターを企てるが、失敗
司馬懿、逝去

252年
王昶、胡遵、母丘倹ら、呉を攻めたが、諸葛恪に防がれ大敗
孫権逝去。孫亮が後を継ぐ

253年
諸葛恪、合肥を攻めたが、張特によって防がれる
蜀漢の姜維、北伐を行うが、郭淮、陳泰らによって撤退させられる
呉の孫峻、孫亮と謀り、諸葛恪を誅殺

254年
姜維、北伐
曹芳、酒色荒淫にふけり、司馬師ら、皇太后郭元に上奏し曹芳を廃す。曹芳は、斉王にもどる
文帝の孫高貴郷公曹髦、帝位に就く。父は曹霖

255年
母丘倹と文欽、反乱を起こすが、司馬師によって鎮圧される
母丘倹は死亡、文欽は呉に逃亡
郭淮逝去
司馬師逝去
呉の孫峻、寿春を攻めるも、諸葛誕に破られ敗退
姜維、北伐を行い、王経を破ったが、ケ艾、陳泰、司馬孚らが防戦にあたっため退却

256年
胡遵逝去
ケ艾、姜維を散々に撃ち破る
孫峻死去呉の実権は、孫りんに移る

257年
諸葛誕、呉と組んで文欽らと欽反乱を起こし、曹髦、司馬昭に鎮圧に当たる。
姜維は、北伐を行うが、司馬望とケ艾に防がれる

258年
諸葛誕、司馬昭に斬られる
孫リン、クーデターを起こし、孫亮を廃し会稽王とし、
孫休を帝位につける
孫休、丁奉と謀り、孫リンを殺す

259年
王昶逝去

260年
曹髦、司馬昭に対し、下僕等を引きつれ自ら攻めるが、賈充配下に討ち取られる
曹操の孫曹奐、帝位に就く。父は曹宇

262年
姜維北伐を行ったが、ケ艾に大敗

263年
ケ艾と錘会、蜀漢を攻め、蜀漢の後主劉禅、ケ艾に降伏
蜀漢滅亡
司馬昭、晋公になる

引用元:「歴史の館Mizoe」様


タグ:三国志
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三国志とは

三国志は、中国の後漢末期から三国時代にかけて群雄割拠していた時代(180年頃 - 280年頃)の興亡史である。“三国志”と呼ばれるのは、ほぼ同時代の歴史家陳寿(233年 - 297年)がこの時代の出来事を記録した歴史書の名前が、『三国志』であることにちなむ。
「三国志」とはその名のとおり、魏・呉・蜀の三国が争覇したことから付いたものであり、この時代の曹操・孫権・劉備らが争い合ったことは一般にも良く知られている。
 その後、歴史書の『三国志』やその他の民間伝承を基として唐・宋・元の時代にかけてこれら三国時代の三国の争覇を基とした説話が好まれ、その説話を基として明の初期に羅貫中らの手によって『三国志演義』として成立した。
「三国志」の世界は『三国志演義』を基としてその後も発展を続け、世界中に広まった。
単に『三国志』と言う場合、本来陳寿が記した史書のことを指す。対して『三国志演義』とは、明代の白話小説であり、『三国志』を基としながらも説話本や雑劇から取り込まれた逸話や、作者自身による創作が含まれている。また、登場する地名・官職名・武器防具などは三国時代の時代考証からみて不正確なものも多い。

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時代背景

 後漢(ごかん、25年 - 220年)は中国の王朝。漢王朝の皇族劉秀(光武帝)が、王莽に滅ぼされた前漢を再興して立てた。都は洛陽(当時は雒陽と称した。ただし後漢最末期には長安・許昌へと遷都)。五代の後漢と紛らわしいので、現在では東漢と言うことが多くなってきた(この場合、長安に都した前漢を西漢という)。
前漢は王莽により簒奪されたが、王莽の政治は周代を模して現実からは遊離していたために、国内は混乱し外交でも失敗し、故に外征を行わざる得なくなり、それも失敗し、収拾のつかない状態になった。この状況で、現在の山東省で呂母の乱が勃発したのを皮切りに全国で反乱が起こり、最終的に南陽(現在の河南省南陽市)の皇族傍系の地方豪族である光武帝により平定された。
銅馬や赤眉など多くの民衆叛乱を吸収して自らの勢力とした光武帝は、民衆は疲弊し、それが兵糧を給じる軍兵は相対的に多いため、材官、騎士、都尉などの地方の駐在軍を廃止し、徴兵制から少数の傭兵制へと切り換えた。また本来は中継ぎが役目である尚書を使い、三公ら大臣の権力を奪い皇帝へと集中させた。しかし後に皇帝が若くして亡くなると権力は真空となり、皇帝の権力を利用できる宦官と外戚による権力争い、それに儒教の振興による地方豪族出身の知識人官僚の反抗が展開された。政局の混乱に耐えかねて民衆叛乱が頻発するようになっても、地方軍備の欠如が裏目に出て為すすべがなかった。
光武帝と第2代明帝を除いた全ての皇帝が20歳未満で即位しており、中には生後100日で即位した皇帝もいた。このような若い皇帝に代わって政治を取っていたのは豪族、特に外戚であった。第4代和帝以降から、外戚は権勢を振るうことになった。宦官の協力を得た第11代桓帝が、跋扈将軍と揶揄される程専横を極めた外戚梁冀を誅殺してからは完全に宦官が権力を握るようになった。宦官に対抗した官僚もいたが、逆に党錮の禁に遭い後漢の衰退を止めることは出来なかった。
外戚、宦官を問わずにこの時期の政治は極端な賄賂政治であり、官僚が出世するには上に賄賂を贈ることが一番の早道だった。その賄賂の出所は民衆からの搾取であり、当然の結果として反乱が続発した。その中でも最たる物が184年の張角を首領とした黄巾党の乱であり、全国に反乱は飛び火し、この時点で後漢は事実上、統治機能を喪失した。
その後は、曹操や劉備らが争う動乱の時代に入る。後漢は一応存在はしていたが、最後の皇帝献帝は曹操の傀儡状態であり、権力は無いも同然であった。220年、曹操の子曹丕により、献帝は禅譲を強要されて、後漢は滅びた。献帝が殺害されたと誤った伝聞を受け、劉備が皇帝に即位し、以降三国時代に入る。
献帝(劉協)は魏によって山陽公に封じられ、その死後は孫の劉康が跡を継いだ。魏に取って代わった西晋でもこの待遇は引き継がれたが、劉康の孫である劉秋の代に、永嘉の乱で漢(匈奴)により殺害され、直系の子孫は絶えた。
魏では漢王朝の宗室は禁錮(公職追放)の扱いを受けていたが、西晋成立後の266年解除された。

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黄巾の乱

黄巾の乱(こうきんのらん、中国語:黃巾之亂)は、中国後漢末期の184年(中平1年)に太平道の教祖張角が起こした農民反乱。目印として黄巾と呼ばれる黄色い頭巾を頭に巻いた事から、この名称がついた。また、「三国志演義」では反乱軍を黄巾“賊”と呼称している。「黄巾の乱」は後漢が滅亡し三国時代に移る一つの契機となった。
冀州鉅鹿の張角は『太平清領書』に基づく道教的な悔過による治病を行った。それをもって大衆の信心を掌握し、政治色を濃くしていった太平道は数十万の信徒を三十六個に分け一単位を「方」とし軍事組織化していった。 漢王朝への蜂起を計画した張角は陰陽五行思想に基づく「蒼天已死 黄天當立 歳在甲子 天下大吉」(蒼天已に死す 黄天當に立つべし 歳は甲子に在り 天下大吉)をスローガンにし、役所の門等に甲子の文字を書いて呼びかけた。
184年(光和7年、干支年は甲子)、先に荊・揚州で兵を集めさせていた馬元義を洛陽に送り込み、中常侍の封諝、徐奉等を内応させ3月5日に内と外から蜂起するよう約束したが、張角の弟子の唐周が宦官達に密告した事で発覚となり、馬元義は車裂きにされた。事を重く見た霊帝は三公や司隸に命じ、宮中の衛兵や民衆を調べさせ千人余りを誅殺し、張角捕縛の命を下した。
2月、事がもれた張角は予定より早く諸方に命じ一斉に蜂起し、自らを天公将軍と称し、弟の張宝、張梁をそれぞれ地公、人公将軍とした。
治安の悪化に伴い、知識人を含む多くの民が難を避けて荊州や揚州、益州など江南や四川の辺境地域に移住したことは、これらの地域の文化水準の向上と開発を促し、これらの地域が自立する素地をなしたことは三国時代やその後の南北朝時代の要因となった。
黄巾の乱以後、軍閥的な勢力が多数出現し、これらによる群雄割拠の様相を呈するが、これら軍閥を支えていたのは黄巾の乱により武装化した豪族たちと広汎な地域に拡散した知識人たちであった。

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